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ダジャレの翻訳

世界的名作「不思議の国のアリス」には様々な翻訳バージョンが存在します。そのため作中のダジャレも、翻訳者によって様々なバージョンがあります。ここで、翻訳者たちの努力と閃きを見てみましょう。

「ニセ海ガメ」と「グリフォン」が、アリスに海の中の学校について説明するシーンです。彼らの説明によると、海の学校の授業時間は、1日目は10時間、2日目は9時間、3日目は8時間というように、どんどん減っていくというのです。

アリスが「なんておかしなの!」とあきれると、グリフォンはこう答えます。

〈英文〉
“That’s the reason they’re called lessons,” the Gryphon remarked: “because they lessen from day to day.”

「授業」の“lesson”と、「減る」の“lessen“をかけたダジャレです。このダジャレ、翻訳者たちはどう訳したのでしょうか?

 「一日一日少なくなっていくからね、だから“少”学校と言うんだよ」グリフォンが説明しました。(田中俊夫訳/岩波少年文庫)
 「それがおさらいといわれる理由さ」とグリフォンが口をはさみました。「一日ごとにさらわれてへってくのさ」(生野幸吉訳)
 「だからこそ時限というんだろ」グリフォンがいいました。「毎日、時間が減ずるから時減というわけだ。」(柳瀬尚紀訳/集英社)
 「ちっともへんじゃないよ。毎日、勉強に時間を喰えば、だんだんにへるの、あたり前だろ」(石川澄子訳/東京図書)
 「だから時間割りなのさ。毎日少しずつ割り引かれていくからな」グリフォンが、言葉をはさみます。(立原えりか訳/小学館)
 「だから学校というんだよ。一日一日と、スクナクナル、つづめてスクール、すなわち学校さ」(中山知子訳/岩崎書店・フォア文庫)
 「一日一日と軽くなっていくから、“軽古”っていうんだよ。」(原昌訳/国土社)
 「そりゃお勉強だもの、少しずつおまけしますってわけさ」とグリフォンの説明だ。(矢川澄子訳/新潮社)
どうでしょう?翻訳者によってまったく違ったダジャレになっていますね。


高市早苗の“電波停止”発言に池上彰が「欧米なら政権がひっくり返る」と批判

 高市早苗総務相が国会で口にした「国は放送局に対して電波停止できる」というトンデモ発言。これに対して、ジャーナリストたちが次々と立ち上がりはじめた。

 まずは、あの池上彰氏だ。民放キー局での選挙特番のほか、多数の社会・政治系の冠特番を仕切る池上氏だが、2月26日付の朝日新聞コラム「池上彰の新聞ななめ読み」で、高市大臣の「電波停止」発言を痛烈に批判したのだ。

 池上氏は、テレビの現場から「総務省から停波命令が出ないように気をつけないとね」「なんだか上から無言のプレッシャーがかかってくるんですよね」との声が聞こえてくるという実情を伝えたうえで、高市発言をこのように厳しく批難している。

〈高市早苗総務相の発言は、見事に効力を発揮しているようです。国が放送局に電波停止を命じることができる。まるで中国政府がやるようなことを平然と言ってのける大臣がいる。驚くべきことです。欧米の民主主義国なら、政権がひっくり返ってしまいかねない発言です。〉

 池上氏がいうように、高市発言は、国が放送局を潰して言論封殺することを示唆したその一点だけでも、完全に国民の「知る権利」を著しく侵犯する行為。実際、海外では複数大手紙が高市大臣の発言を取り上げて問題視、安倍政権のメディア圧力を大々的に批判的しているとおり、まさにこれは、民主主義を標榜する国家ならば「政権がひっくり返ってしまいかねない」事態だろう。

 さらに池上氏は、高市発言に象徴される政府側の論理の破綻を冷静に追及。停波の拠り所としている「公平性」を判断しているのは、実のところ、政府側の、それも極端に“偏向”している人間なのだと、ズバリ指摘するのだ。

〈「特定の政治的見解に偏ることなく」「バランスのとれたもの」ということを判断するのは、誰か。総務相が判断するのです。総務相は政治家ですから、特定の政治的見解や信念を持っています。その人から見て「偏っている」と判断されたものは、本当に偏ったものなのか。疑義が出ます。〉

 まったくの正論である。とくに、高市氏といえば、かつて『ヒトラー選挙戦略』(小粥義雄/永田書房)なる自民党が関わった本に推薦文を寄せるほどの極右政治家。同書は、本サイトでも報じたとおり、ヒトラーが独裁を敷くために用いた様々な戦略を推奨するもので、堂々と「説得できない有権者は抹殺するべき」などと謳うものだ。こんな偏っている大臣がメディア報道を偏っているかどうか判断するというのは、恐怖でしかない。

 前述の朝日新聞コラムで池上氏は、他にも放送法は〈権力からの干渉を排し、放送局の自由な活動を保障したものであり、第4条は、その際の努力目標を示したものに過ぎないというのが学界の定説〉と解説したうえで、放送法第4条を放送局への政府命令の根拠とすることはできないと批判。〈まことに権力とは油断も隙もないものです。だからこそ、放送法が作られたのに〉と、最後まで高市総務相と安倍政権への苦言でコラムを締めている。

 念のため言っておくが、池上氏は「左翼」でも「反体制」でもない。むしろ良くも悪くも「政治的にバランス感覚がある」と評されるジャーナリストだ。そんな「中立」な池上氏がここまで苛烈に批判しているのは、安倍政権のメディア圧力がいかに常軌を逸しているかを示すひとつの証左だろう。

 そして、冒頭にも触れたように、「電波停止」発言に対する大きな危機感から行動に出たのは、池上氏ひとりではない。本日2月29日の14時から、テレビジャーナリズムや報道番組の“顔”とも言える精鋭たちが共同で会見を行い、「高市総務大臣「電波停止」発言に抗議する放送人の緊急アピール」と題した声明を出す。

 その「呼びかけ人有志」は、ジャーナリストの田原総一朗氏、鳥越俊太郎氏、岸井成格氏、田勢康弘氏、大谷昭宏氏、青木理氏、そしてTBS執行役員の金平茂紀氏。いずれも、現役でテレビの司会者、キャスター、コメンテーターとして活躍している面々だ。

 なかでも注目に値するのは、報道圧力団体「放送法遵守を求める視聴者の会」から名指しで「放送法違反」との攻撃を受け、この3月で『NEWS23』(TBS)アンカーから降板する岸井氏も名前を連ねていること。本サイトで何度も追及しているが、「視聴者の会」の中心人物である文芸評論家の小川榮太郎氏らは安倍総理再登板をバックアップし、他方で安保法制や改憲に賛同するなど、安倍政権の別働隊とも言える団体だ。

 同会は『23』と岸井氏に対する例の新聞意見広告と並行して、高市総務相宛てに公開質問状を送付し、高市総務相から“一つの番組の内容のみでも、放送法違反の議論から排除しない”という旨の回答を引き出していた。これを経て、高市総務相は国会での「電波停止」発言を行っていたのだが、これは明らかに、安倍政権が民間別働隊と連携することで世間の“報道圧力への抵抗感”を減らそうとしているようにしか見えない。事実、高市総務相は国会でも、放送局全体で「公平」の判断を下すとしていた従来の政府見解を翻して、ひとつの番組だけを取り上げて停波命令を出すこともあり得ると示唆。ようするに、“すこしでも政権や政策を批判する番組を流せば放送免許を取り上げるぞ”という露骨な恫喝だ。

 何度でも繰り返すが、政府が保持し広めようとする情報と、国民が保持し吟味することのできる情報の量には、圧倒的な差がある。政府の主張がそのまま垂れ流されていては、私たちは、その政策や方針の誤りを見抜くことはできず、時の政権の意のままになってしまう。したがって、“権力の監視機関”として政府情報を徹底的に批判し、検証することこそが、公器たるテレビ報道が果たすべき義務なのだ。

 ゆえに、池上氏や、田原氏をはじめとするメディア人が、いっせいに「電波停止」発言に対して抗議の声を上げ始めたのは、他でもない、「国民の知る権利」をいま以上に侵犯させないためだろう。これは、親政権か反政権か、あるいは政治的思想の対立、ましてやテレビ局の「特権」を守る戦いなどという図式では、まったくない。「中立」の名のもと、政府によるメディアの封殺が完了してしまえば、今度は、日本で生活する私たちひとりひとりが、政府の主張や命令に対して「おかしい」「嫌だ」と口に出せなくなる。それで本当にいいのか、今一度よくよく考えてみるべきだ。

 高市総務相の「電波停止」発言は、メディアに対する脅しにとどまらず、国民全員の言論を統制しようとする“挑戦状”なのである。そういう意味でも、本日行われる「高市総務大臣「電波停止」発言に抗議する放送人の緊急アピール」に注目したい。

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こんなにも日本は『発展途上国』だったのか。

言語がない場合に比べれば

“人間関係というものは、他者と自分との関係であり、そこに介在するのは、つまりはほぼ言語に依存したコミュニケーションだといえる。個人が抱いた抽象的な概念さえも、言葉によって、手探りで伝え合うしかない。まったくもって、歯がゆいことだ。
 しかし、言語がない場合に比べれば、まずまずの状況だとは思うのである。”

イタリア人ナンパ

イタリア人ナンパで一番とまどったのは13歳の男子に、『僕はまだキスをしたことがないんだ。はじめてするなら貴女みたいなひとがいいな。瞳が優しいし、まつ毛の角度がとっても素敵なんだもの』って言われたとき

「人間が人間を模した」ロボット ローマ教皇庁

“キリスト教の影響下にある欧米社会で、「人間が人間を模した」ロボットを開発することはタブー視される傾向があることは前回紹介しましたが、P2の公開はそのタブーに触れるものでした。このためホンダは、P2を世界に披露する前に、キリスト教社会で指導的立場にあるバチカン市国のローマ教皇庁を訪問して意見を仰いだとされています。このとき、「P2が作られたことは、神がせしめたこと。それもまた神の行為の1つ」と司祭に告げられたことで、晴れて世界に発表されることになりました。”

「反アマゾン法」が機能

最近聞いた話でおもしろいと思ったのがアナログのボードゲーム。モノポリーとか、紙のボードゲームです。実はドイツがヨーロッパの中でいちばん進んでいて、すごく人気なんですけど、それが今、駄目らしいんですよ。紙のボードゲームが売れなくなってきた。フランスはいいらしいんですよ。

 世界的な傾向で、アメリカもだめ、ドイツもだめ、イギリスもだめ。すべて原因はアマゾン。紙のゲームって、愛好家がやってるものだから、地方のショップが定期的にゲーム大会を開くとかして、それでコミュニティを維持していた部分ある。ところが、そういったコミュニティのコストを払わないアマゾンが安い値段で売るから、買うときはアマゾンで買っちゃう。ドイツのローカルのお店がどんどんつぶれてしまって、ゲームの競技人口も減って、どんどんマーケットがシュリンクする減少が起こっていて。

 いろんなジャンルで今起こっている現象なんですね。アマゾンが進出したためにマーケットが崩壊する現象が。リアルなお店がつぶれたことでマーケットが崩壊する現象。アメリカの音楽市場が崩壊したのも、タワーレコードとか、ああいうリアルな流通網がだめになって急激にだめになった。リアルなお店の網を持っていることがすごく重要なことなんです。

 フランスがなんで元気かというと、評判は悪いけれど、「反アマゾン法」が機能しているんですよ。フランスは小さい書店とかが元気で生き延びている。地方の小さいお店が元気な国ってフランスだけらしいんです。それが反アマゾン法のおかげらしいんですよ。あまり知られてない事実で。むしろフランスが時代錯誤の国でネットのことをわかってない、みたいに報道されているけど、わかってないのは実は日本なんですよ。フランスの方がよっぽど頭いい。



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そうは言ってもねえ
私はアマゾンのほうがいいな

努力すれば成功する、は間違っている

努力すれば成功する、は間違っている
もう「努力」って概念捨てよう
必要なのは「適切な目標設定」と「計画の実行」

守破離

“守破離の原型の考えが書いてあります。

この考えは武道や芸道の場で使われてきました。

『守』とは
道に入った者は、まず師匠の教えるとおり型を素直に学びます。
多くの話を聞き、所作も真似します。
そして指導者の価値観も学びます。
技法だけでなく、礼法もきっちり学びます。
この段階では、師匠の言う事はすべてYESです。

『破』とは
体に習得した型に疑問を持ったり、工夫したくなる段階です。
この時点ではもう初心者ではありません。
色んな試行錯誤をして、基本の型の上にアレンジを加えていきます。
しかし、多くは師匠の型の偉大さに改めて感じる事が多いようです。
それを踏まえた上で、さらに自分の型を工夫していきます。
あくまで師匠の基本がベースです。

『離』とは
型に囚われず自由な境地の段階です。
独自の道を追求していきます。
それは師匠から離れる事でもあり、新たな道の始まりでもあります。


こうして武道や芸道は伝統を継承すると共に発展させてきました。
『離』の段階に至ったとしてもそれはゴールではありません。

終わり無き「道」の始まりです、そしてよりその人を成長させる段階に入ります。


この守破離の考えは、守破離という言葉は認識しなくても
永らく日本社会に浸透してきました。”

「:」の特許

“デジタル時計の「時」と「分」とを表す数字の真ん中には「:」のマークがついていて、このマークが点滅していますね。
 この点滅の間隔を1秒ごとにするアイデアが、特許されているのです。
 1970年に出願された特許で、現在のセイコー・エプソン社が持っています。”

不幸を呼び寄せる人

例えば、「彼氏がこんなに酷くて~」「お母さんのここが嫌!」と身内や大切なものをネガティブに語っている時。

愚痴なのだからここは同調しようと「えー、そんな彼氏、別れちゃいなよー!」「それはお母さんが悪いわ!!」と乗ったら乗ったで「私が大好きな人、悪く言わないでよ……」と返ってくることもあれば、その場では「ありがとう!やっぱりそうだよね!!」と言いつつも後になって、「あの人、私の彼氏/お母さんの悪口言ってた……」と脳内変換する人がいる。

ではどうすればいいかというと、ここではその対象の人物には触れず、その人の気持ちに寄り添うことが正解となります。「大変だったねー」「あなたなら大丈夫だよ」「私にできることがあったら何でも言ってね!」などなど。

本当の正解は、こういう面倒くさい人とは付き合わないことでしょうけどね。自分は人に察してもらうことを期待しておいて、人の気持ちを察しようとはしない、Give and TakeならぬTake and Takeな人物ですから。わざわざ不幸を呼び寄せておいて、いざ不幸になったらそれを人のせいにするような人間と付き合ってもろくなことはありません。


怒るのは、自分が賢いて、偉いと思うとるからや

“介護体験先の、いつニコニコしている可愛いおばあさんが、急にシリアス顔になって「どうして人は怒るのか……。怒りはあかんな。怒るのは、自分が賢いて、偉いと思うとるからや。」と言うのを聴いた瞬間、お年寄りGJって思った。”

ヒトラーもベジタリアンだった。

“心優しく意志の強い人々はベジタリアンになるのだろう。ヒトラーもベジタリアンだった。”旅行者の朝食 (文春文庫) / 米原 万里 

衣:プリペイドカード 食:フードスタンプ 住:自治体から家主に家賃を直払い

私がNYで貧困ビジネスやってたときの受給者支援は

衣:プリペイドカード
食:フードスタンプ
住:自治体から家主に家賃を直払い

でした。つまり受給者に現金を渡すことってなかったんです。おそらく「お金の扱いがヘタクソ&いらんモノを買う」という意図からだと思います。


精度のよい神のお告げ

精度のよい神のお告げ

人間はずっとずっと昔から
神のお告げに頼って暮らしてきた

人工知能が発達したとして
それを「精度のよい神のお告げ」と考えれば
すんなりと人間の文化に接続できるだろうと思う

命は惜しからず 名こそ惜しけれ という場合、共同体の記憶、語り伝えを信頼している

命は惜しからず
名こそ惜しけれ

という場合、共同体の記憶、語り伝えを信頼しているということだ

記事がなければ作ってしまうのがジャーナリズムの本質

記事がなければ作ってしまうのがジャーナリズムの本質

怒りの感情を記録 アンガーログ

 怒りの感情のコントロールは多くの人にとって苦手なものでしょう。こんな人はお金のコントロールも苦手と言えるかもしれません。実はこの二つの間には意外な共通点があります。それはズバリ「記録」しているかどうかです。

 小遣い帳、家計簿はつけていますか。もしつけていないとすれば、お金の出入りをどのように管理していますか。なんとなくですか、それとも大雑把でしょうか。

 小遣い帳や家計簿はつけなくても生きていくのに困ることはありません。でも、つけていない人はお金に対してなんとなくの不安を持っているのではないでしょうか。それは自分自身、しっかりとお金を管理できていないことを理解しているからです。

 これが企業となると基本的にはお金を記録することを義務付けられています。損益計算書、貸借対照表などを企業は決算時に作成して納税をします。会計に明るい企業はこうしたベーシックな会計書類に加えて、キャッシュフロー計算書なども作成して、お金に対して詳しく理解をしようと努めます。

 どんぶり勘定という言葉があります。日々の会計を管理せず、大雑把にお金を管理しているということへの揶揄(やゆ)です。当然、どんぶり勘定の会社は長期的に見ればうまくいくことはありません。

 怒りの感情についても同じで、怒りの感情を記録すると、自分の日々の感情の変化を理解し、コントロールできるようになります。これをアンガーマネジメントの世界ではアンガーログ(記録)と呼びます。

 アンガーログは、日々のイラッとしたことを記録する日記帳のようなものです。日記帳と言っても一日を振り返って書くのではなく、イラッとした時にその場でささっと書き留めておくのが特徴です。こうすることで怒りの感情の変遷が理解できるようになり、またパターンや傾向をつかむことができるようになります。

 書く内容はごくごく簡単でOKです。イラッとしたこと、日時、場所くらいを書き留めておけばよいでしょう。書くときに、怒りの原因、解決策などは全く考える必要はありません。

 家計簿と同様、アンガーログはつけていなくても生きることに困ることはありません。でも、つけていないと怒りの感情を大雑把にしか理解できないので、いつまでたっても怒りの感情のコントロールが上達することはありません。

 毎日イライラしたことを記録するなんて気がひける、面倒くさい? そう思わずにアンガーログにチャレンジしてみてください。記録することで、思ってもみなかった怒りのパターンがわかるようになるでしょう。そうすれば、今よりももっと怒りの感情に対する理解が深まり、コントロールしやすくなるでしょう。

アメリカでは放送法の「公平の原則」は廃止された。なぜか。

高市早苗総務大臣の電波停止発言が問題になっている。
放送法は放送局に対し「政治的公平」を求めており、
これに違反した放送を繰り返し行った場合、
総務省がその放送局の電波を停止することが出来ると国会で答弁したのである。

アメリカもかつては放送法に「公平の原則」を明記していたが、
30年ほど前、「公平の原則」を放送局に押し付ける事は、
憲法が保障した「言論の自由」に違反すると最高裁が判断し、「公平の原則」は廃止された。

日本とアメリカは放送の「政治的公平」を巡って真逆の方向を向いている。
なぜそのような事が起こるのか。
アメリカは放送の世界に新規参入を促して多彩な言論を保証する事が、
憲法の「言論の自由」と合致し民主主義を発展させると考えている。

ところが日本では言論機関と称する新聞社が既得権益を守るためにテレビ局を系列化し、
またNHKが受信料を確保するため有料放送の世界を拡大させないようにした。
日本のメディアが自己の利益のためにアメリカと真逆の放送の世界を創った事が、
今になって安倍政権に付け込まれているのである。

そして誰も「公平の原則」を撤廃しようとは言い出さない。
「権力の横暴」を批判したところで始まらない。安倍政権の脅しは既にメディア界に浸透しきっている。
かつて日本とアメリカの放送の世界に今ほどの違いはなかった。

あるとすればアメリカはCM収入で成り立つ三大ネットワークが中心で、
寄付で成り立つ公共放送がマイナーな存在だったのに対し、
日本は国民からの受信料で成り立つ公共放送のNHKと、
三大ネットワークと同じCM収入で成り立つ民放とが肩を並べる二元体制であった。

違いが出てくるのはケーブルテレビがアメリカで普及し始めた70年代後半である。
それまでの電波を使うテレビはチャンネル数が限られたが、
ケーブルで放送を行うテレビはチャンネル数を飛躍的に増やす事が可能となり、
「多チャンネル放送」がアメリカで始まったのである。

チャンネル数が少ない電波の放送を自由放任にして国民に偏った情報が流された場合、
国民の判断に大きな影響を与える懸念が生じる。
民主主義にとって最も重要なのは国民の判断を誤らせない事である。
そこで電波のテレビには国民の判断を誤らせないための「公平の原則」が強制されることになった。
政治的に対立する問題を放送する場合、両者の言い分を偏りなく放送しなければならないとされた。
戦後、アメリカを真似てテレビ放送を始めた日本はそれをそのまま放送法に盛り込んだのである。

ところがアメリカに「多チャンネル放送」が始まり、さらに79年にスリ-マイル島で原発事故が起きた。
原発を巡る放送は「公平の原則」から言えば「原発反対と原発賛成」を必ず並べて放送しなければならない。
しかしこの時の地元テレビ局は「原発反対」の放送を行い、放送法違反が問題にされた。
この時に婦人団体が「原発反対」の放送を擁護して立ち上がる。
むしろ放送法がおかしいと裁判に訴えたのである。

そして連邦最高裁判所は「放送局が少ない時代には公平の原則を課す必要があった。
しかし多チャンネルの現在、すべての放送内容に両論を併記するよう強制する事は、
かえって憲法が保障する言論の自由を害する」との判断を下した。
そしてテレビ局を監督するFCC(連邦通信委員会)が87年に「公平の原則」を撤廃したのである。

つまり放送局は一方の意見だけを放送しても放送法違反には問われないが、
反論を申し出られた場合には反論も放送しなければならないとされた。

アメリカでケーブルテレビが普及したのに、
アメリカの真似をしたがる日本にそういう動きは見られず、
むしろケーブルテレビの普及を遅らせる動きがあった。
日本には「多チャンネル放送」を実現させないようにする勢力がいたのだ。

それを追及していくとテレビ局を系列下に置いた新聞社と有料放送拡大阻止を狙うNHKが見えてきた。
アメリカでは全国紙と全国ネットのテレビが系列になる事を禁じている。
影響力のあるメディアが統合される事は民主主義に必要な言論の多彩さをなくすからである。

ところが日本では70年代半ばに朝日新聞社がNET(日本教育テレビ)を
系列にしようと田中角栄氏に働きかけ、
それを契機にすべての民放テレビ局が新聞社の系列下に入る事になった。
全国紙を頂点に民放キー局があり、その下に準キー局、そしてローカル局が底辺に位置付けられる。
朝日、毎日、読売、産経、日経の5つの縦の系列が出来上がった。
そしてケーブルテレビの普及は系列の末端の地方ローカル局を脅かすと判断されたのである。

一方でNHKと民放との二元体制は、
受信料という有料放送の世界とCM収入の世界とが競合しないことで成り立っていた。
それまで視聴者は何も考えずに受信料を払ってきたが、
そこに有料放送のケーブルテレビが参入し、NHKより安い料金で放送が見られるようになれば、
視聴者にコスト意識が出てくる。それがNHKには困るのである。
新聞社とNHKは自民党の政治家に働きかけて郵政省に圧力をかける。
こうして日米の放送の世界は大きく離れていくのである。

郵政官僚の中にはアメリカのように多チャンネル時代に対応した放送法に変えなければならないと
考える人もいたが、新聞社とNHKの政治力は大きく、したがって放送法は時代遅れのままとなった。

アメリカではケーブルテレビや衛星放送が多チャンネルの世界を形成して三大ネットワークと肩を並べたが、
日本では新聞社を頂点とするピラミッドの最底辺にケーブルテレビや衛星放送が位置付けられ、
しかも新規参入業者には経営が困難な諸制度があって撤退させられ、
ケーブルテレビや衛星放送が新聞社とテレビ局の既得権益を脅かす存在にはならなかった。

政府与党が「放送法」を振りかざして放送局に対応する様は、
日本が情報や民主主義の面で遅れた国である事を世界に宣伝しているようで恥ずかしい。

しかし同時に権力にそうさせる素地を作ったのは日本の新聞とテレビである事も忘れてはならない。
これこそが権力以上に恥ずかしい存在である事を国民が理解しないと、
日本の「言論の自由」も「民主主義」もただのお題目になる。

高市大臣の電波停止発言には「権力の横暴」とか「言論の危機」とか批判の声も上がっているが、
権力がメディアを操縦しようとするのは万国共通のいわば常識である。
それを「けしからん」と批判するだけでは何も変わらない。

恥ずべき存在のメディアに奮起を促しても無駄だろう。
しかしアメリカの教訓は、何かで権力が放送法違反を問題にした時、
放送法がおかしいと言って国民が立ち上がり、司法に訴えなければ始まらない事を示している。
日本の司法がアメリカと同じ結論を出すかどうかは分からないが、
「言論の自由」を巡る両国の差が分かるだけでも意味はある。

「ほかに選択肢はありませんよ――」

 「ほかに選択肢はありませんよ――」

 メディア論が専門の石田英敬・東大教授は2013年、安倍政権が発するメッセージはこれに尽きると話していた。そして翌年の解散・総選挙。安倍晋三首相は言った。

 「この道しかない」

 固有名詞は関係なく、為政者に「この道しかない」なんて言われるのはイヤだ。


日本は先進国のなかで突出して“言論統制された国”

採録
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イギリスの大手紙「ガーディアン」や「エコノミスト」がこぞって安倍政権におけるメディア圧力の実態を報じるなど、すでに、日本は先進国のなかで突出して“言論統制された国”であることが世界に露見し始めている。

 

 だが、おそらく安倍政権は、今後、こうした報道すら許さないよう、あらゆる手段で海外メディアまでもを封じ込めていくだろう。事実、第二次安倍政権以降、政府は露骨に“海外メディア対策”を強化させているのだ。

 

 米「ニューヨーク・タイムズ」前東京支局長で、日本取材歴20年を誇るアメリカ人ジャーナリスト、マーティン・ファクラー氏が、新著『安倍政権にひれ伏す日本のメディア』(双葉社)のなかで、その実態を告発している。

 

 まずは、安倍政権による記者会見での海外メディアの扱い方だ。

 

〈そもそも安倍首相は、他の総理大臣に比べてぶら下がり会見を含め、記者会見の回数がやけに少ない。そのうえ記者会見に出ても、限られた時間の中で、まず記者クラブメディアの記者が優先されて指名される。私のような海外メディアの記者は当てられるかどうかはわからないし、仮に質問できたとしても、まるで政権公約を要約したような通り一遍の答えしか出てこないのだ。〉(『安倍政権にひれ伏す日本のメディア』より、以下同)

 

 ようするに、安倍政権は、海外メディアが日本政府に直接質問をぶつける機会すら奪っているのだ。実際、自民党が政権与党に返り咲いて以降、一度として日本外国特派員協会(FCCJ)による安倍首相の記者会見は実現していない。しかも、ファクラー氏によれば、〈そもそも、選挙前ともなるとFCCJは自民党からほとんど無視されてしまう〉という。

 

〈FCCJでは海外の記者会見のスタイルを踏襲し、記者からタフな質問が次々と飛んでくる。どんな質問が出るのか、事前に把握することは難しい(本来、当たり前のことなのだが)。自民党の議員たちはその論戦に耐えられないと考えているのだろう。自分たちがコントロールできない場所は、戦う前に避けているのだ。〉

 

 海外の記者会見のスタンダードでは、政治家は記者から鋭い質問を受け、それにアドリブで答えていく。しかし、日本の記者クラブは“特オチ”を恐れて、各社横並びの報道に終始してしまっているのが現状だ。この構造についてファクラー氏は、官邸が指名を予定している記者に対して事前に質問項目を出すよう要求していることなどを例に、〈日本では官邸が記者クラブメディアをがっちりコントロールして〉おり、〈官邸の記者たちは、権力側からの管理によってあまりにも縛られ、またそのことに慣れすぎている〉と、厳しく批判する。

 

〈一国のリーダーが想定問答のような記者会見を開くなど、民主主義国家では考えられない。アメリカの大統領が記者会見を開くときには、質問項目など誰も事前には提出しない。記者はあらゆる角度から実にさまざまな質問を投げかけ、なかには大統領にとって相当にタフなやり取りもある。政権に批判的な質問もあるのは当然だ。〉

 

 だが、ファクラー氏によれば、2014年に自民党の山谷えり子国家公安委員長(当時)がFCCJで会見を開いた際、フリーランスの記者たちが在特会との関係について質問を浴びせかけてから、〈あれ以来、FCCJは自民党から目の敵にされている〉という。つまり、安倍政権にとってみれば、骨抜きになっている国内メディアは“政権の広報”で、一方、シビアな疑問をぶつける海外メディアなどは“利用価値がない”ということなのだ。

 

 これに関してファクラー氏は、9.11の後に米ブッシュ政権が諸国家を“敵と味方”に分けて「有志連合」をつくりあげたことと似ていると書く。実際に、安倍政権は〈味方のメディアと協力し、敵がたのメディアを一気に叩く〉というメディア戦略を次々と露わにしている。

 

 たとえば昨年、安保法審議中に安倍首相が生出演したのは読売テレビ『情報ライブ ミヤネ屋』とフジテレビ『みんなのニュース』だけだったが、安倍シンパ団体「放送法遵守を求める視聴者の会」によるTBS『NEWS23』岸井成格攻撃の全面意見広告を掲載したのも、安倍政権に近い読売新聞と産経新聞だった。また、一昨年、朝日新聞が「吉田調書」関連の自社報道を取り消した際、読売と産経は政府の吉田調書全文公開に先駆けてその全容をスクープしていたが、そこではもっぱら朝日バッシングが繰り広げられており、調書を隠蔽していた政府を批判するものではなかった。これも、官邸が“朝日潰し”のため読売と産経に情報をリークしたからだと見られている。

 

 この“アメとムチ”を使ってマスコミを分断させる手法は、海外メディアに対しても見られる。たとえば、第二次安倍政権以降、「ニューヨーク・タイムズ」が安倍首相に単独インタビューする機会は一度も訪れなかったが、ライバル紙である米「ワシントン・ポスト」は3度も単独インタビューに成功している。しかも、「ワシントン・ポスト」による3回目(15年3月26日)の安倍首相インタビューを担当したディヴィッド・イグナチウス氏は、日本での取材経験があまりない「コラムニスト」で、これも官邸による“厳しい質問をさせないための人選”だったと、ファクラー氏は記している。

 

 事実、このワシントン・ポストのインタビューは、その直後に控えていた米議会での安倍首相の演説前にアメリカでの歴史修正主義者との批判を打ち消す狙いがあったと言われていた。このとき、安倍首相は従軍慰安婦について「慰安婦は人身売買の犠牲者」(these people, who have been victimized by human trafficking)と発言し問題になったが、もしもファクラー氏のような慰安婦問題をよく知るジャーナリストによるインタビューであったならば、取材中にこの点をより強く追及されたはずだろう。ファクラー氏が言うように、〈日本を拠点に置く特派員ではなく、わざわざアメリカからやってきたコラムニストを相手にした官邸のメディア戦略は、結果的にうまくいった〉のだ。

 

 この例からもわかるように、安倍首相は海外メディアから歴史修正主義的だと指摘されることに神経を尖らせているが、最近も自民党でこんな動きがあった。昨年、自民党内に、明治以降の日本の近現代史を検証するという名目で「歴史を学び未来を考える本部」という組織が安倍首相の肝いりで設立された。ところが、12月22日の初会合では、自民党側の意向で、海外メディアの取材が許可されなかったのだ。同組織の会合は今後も定期的に行われ、GHQによる占領政策や南京事件、そして従軍慰安婦などについてテーマにしていくという。自民党が海外メディアの取材を拒否するワケは明白だろう。

 

 だが、ほとんどの国内紙やテレビ局は、こうした海外メディアの取材機会が制限されているという事実を積極的に報じようとしない。それどころか、朝日新聞やテレビ朝日、TBSなどが露骨な政治的圧力にさらされているのに、御用メディアの産経新聞らは官邸の尻馬にのって、これを積極的に後押しすらしている。繰り返すが、ファクラー氏が警鐘をならしているのは、まさにこうした政権による“メディアの分断”なのだ。

 

〈「取材のアクセスに制限をかけるぞ」といった恫喝にしても、メディアが負ければあとは政権のやり放題になってしまう。そんなとき各メディアが手を取り合って「そんな要望には応じないぞ」と論陣を張れば、そこは政権が譲るのだ。

「報道ステーション」や朝日新聞に官邸から圧力がかかったのであれば、こういうときこそ読売新聞も産経新聞も毎日新聞も、連帯してメディア・スクラムを組み、官邸に反発するべきだ。メディア単体への圧力は、風向きが変われば他のテレビ局なり新聞社なりへの圧力へとすり替わる。〉

〈FCCJが取材拒否に遭っているのであれば、そのことを敢えて取り上げて問題提起をする。会社という縦割りの縄張り意識を捨てて、「ジャーナリズム」という一点で日本のジャーナリストは団結しなければ、権力者の思うつぼだ。〉

〈本来、記者クラブはメディアが権力に対抗するために生まれた組織だ。今こそ記者クラブメディア同士で連帯し、安倍政権のメディア・コントロールと真剣勝負で戦うべきだ。〉

 

 はたして、国内の大マスコミは、このファクラー氏の叫びをどう受け止めるのだろうか。海外のジャーナリストにここまで言われながら、それでも連中が素知らぬ顔で“政府のポチ”のままでいるのならば、わたしたちは安倍政権にだけでなく、彼らにもまた「NO」を突きつけていかざるをえない。 

ーーーーー

日本の場合は政治的に非常に特殊な構造を持っており、いわゆる政財官の護送船団方式で、官に属する官僚と幹部級公務員が、行政事務は無論、立法面も司法面も担っている、と言っても過言では無い。

  政権党は、行政の立法案の「ご説明」を受けて最大多数の賛成票を以て行政立法案を可決するための要員であり、かつまた行政立法案について、官僚に代わって野党を介して国民に説明して可決後の理解を促す役割の、行政機構の広報担当を担っている。

  従って、唐突な記者の質問には、首相や閣僚は官僚の助言が無ければ応えられないから、事前に質問事項を受け付け、官僚が用意した回答書を読む、という構造になっているのである。

  結局のところ、日本は戦後の経済成長を米国市場への大量輸出政策によって先進国の仲間入りをしたものの、実態として成熟国に成長する過程は踏んでおらず、未だに振興国か、もしくは発展途上国並みであろう。

  法治主義を装っているものの、謝礼だの付け届けだの、盆暮れのシーズンにはお世話になった上司などへの御礼としての贈答品を送るため、デパートは大賑わいである。いわゆる義理を立てるための贈賄が社会に根付いていると言えるだろう。

  行き違いや紛争解決には地元の顔役などが仲介して事を納めて謝礼を受け取る、いわば無法主義的要素が未だ色濃く、成熟した先進国とは言えないだろう。

  結局のところ、寄らば大樹の陰、長いものには巻かれろ、場の空気を読んで大勢に付く、といった風土を持つゆえか、トップに昇り詰めた者のプライドは妙に高く、このプライドの高いエリートによって一大護送船団ムラが構成されていることにより、一層、唯我独尊、傲岸不遜な国政運営になっているのではなかろうか。

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知らされていないものについては批判しようもない
意見も形成できない
知ろうとしてもブロックされてしまう
知らされていないものについては知ろうとすることもできない

だからこの情報の開示、言論の自由については
権力側が圧倒的に有利である

せめと政権交代があって、時々は情報を公正に公開する政権であって欲しい。

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原爆を落とされてヤットコサ覚醒して70年後には元に戻ってしまう国民

本当に元に戻ってしまいましたねえ
感慨が深い
結局これが人間の本性なのだろうか

支配する人とされる人が固定化しているから
こういう傾向はますます固定化するのだろう

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アドリブで答えるなんて、安倍晋三にはとても無理。

だって国会中、他の人の論戦中も安倍晋三はまるで上の空。

安倍晋三の為に官僚が書いたであろう答弁書を上手に読めるように無我の境地に入り、他に聞こえるほど大きな声を出してただひたすら答弁書朗読の練習に励む姿をVDにばっちり撮られているとも知らないで、もう夢中で答弁書ご朗読の練習中。

シンゾウは上の空 という歌でも作ればいいね
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アベさんを無能だと言うのは自由だけど
どんなに賢い人でもめったになれない総理大臣になっていることは確かですよね
これはどう説明できるんでしょうか

つまり、アベ総理を作り出す「構造」に負けているわけで、その「構造」が人形遣いだ
人形を馬鹿だと笑っていても仕方がない
この、長く続いている「人形遣い」をどうにかしないといけない


第2次安倍政権は手術をしないで麻酔だけを打ち、その効果は切れてしまった

"日本経済の直面している問題は、安倍首相のいう「戦後レジーム」というより、1960年代から田中角栄が築いた田中レジームともいうべき開発主義の利権構造である。小泉首相が「自民党をぶっ壊す」といったのは、この田中レジームをぶっ壊すことだった。

そのねらいは正しかったが、これは「痛み」をともなう外科手術であり、その跡を継いだ第1次安倍政権は元のバラマキ政治に戻してしまった。金融政策は手術の麻酔にはなるが、第2次安倍政権は手術をしないで麻酔だけを打ち、その効果は切れてしまった。挙げ句の果てに出てきたのが、田中と同じ結果の平等では話にならない。"


ゲームでも漫画でも小説でも 日本軍が大活躍している こうして意識は変えられる

ゲームでも漫画でも小説でも
日本軍が大活躍している
こうして意識は変えられる

政治も学問もスポーツも アメリカは日本の『二軍』でよろしいのか

集団的自衛権はアメリカの手下になるということ
アメリカの二軍になるということ

そんなことがいいことだと思えるのだろうか

そもそも
日本ブロ野球がアメリカ大リーグの二軍の位置づけで
いい選手がいるとアメリカに行って
通用しなくなったら日本に帰ってきて現役続行とは

政治も学問もスポーツも
アメリカは日本の『二軍』で
監督はアメリカ人
日本人が偉くなるのはアメリカでアメリカ式を訓練されて認証された人
そんなアホな世界で行きている

自民党も民主党もアーミテージ・ナイレポートを忠実に実行する点では変わりはない
鳩山政権では独自方針を取ろうとしたが潰されて野田政権では決定的にアメリカ傀儡政権になった
また、そうでなければ、
政権交代可能な二大政権など出来ないのだ

野田政権のとき、原発を全面的に廃炉にしようと思ったら アメリカから反対された

野田政権のとき、原発を全面的に廃炉にしようと思ったら
アメリカから反対された

諸外国は原発をどんどん作っているのに
アメリカも日本も原発をなくしたら技術の維持発展が出来ない
これは致命的に危険だ
アメリカではもう原発を作ることは出来ないので
日本では続けろ
という命令

甘利大臣、「絵に描いたようなあっせん利得」をどう説明するのか の紹介

採録
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甘利大臣、「絵に描いたようなあっせん利得」をどう説明するのか
投稿日: 2016年1月21日 投稿者: nobuogohara
本日(1月21日)発売の週刊文春が、甘利明TPP担当大臣や秘書がUR(独立行政法人都市再生機構)の道路用地買収に関して「口利き」を行い、業者から多額の金品を受領していたことを報じている。この記事には、その行為について、あっせん利得処罰法違反や政治資金規正法違反が成立する可能性がある旨の私のコメントも掲載されている。報じられている疑惑の中身は以下のようなものだ。

甘利大臣の公設第一秘書が、URの道路用地買収をめぐるトラブルに関して、UR側に補償金を要求していた業者から依頼を受け、UR側との交渉に介入し、URに2億2000万円の補償金を支払わせ、2013年8月に、その謝礼として500万円を受け取った。

それに加え、甘利大臣自身も、業者と直接会って、URと業者との産業廃棄物処理に関するトラブルについて説明を受けて補償交渉に関する対応を依頼され、同年11月に大臣室、2014年2月には神奈川県内の事務所で、現金50万円ずつ計100万円を直接受け取った。

その後、別の秘書(現・政策秘書)が環境省の課長と面談し、URの担当者と面談するなどして、産廃処理をめぐるトラブルに介入。その秘書は業者から多額の接待を受け、URの監督官庁である国交省の局長への「口利き」の経費などと称して合計6百万円以上を受領するなどしていた。

公設第一秘書が受け取った500万円のうち400万円については甘利氏が代表となっている「自民党神奈川県第13選挙区支部」の領収書を渡されたが、同支部の政治資金収支報告書には、寄付100万円の記載しかない。また、甘利大臣が受け取った100万円のうち、最初の50万円は、政治資金収支報告書に記載がないという。

日曜日(1月17日)に、週刊文春の記者からの電話で、甘利大臣と秘書に関する疑惑の内容を聞かされ、私は耳を疑った。いまどき、そんな“絵に描いたような”国会議員や秘書による「口利き・あっせん利得」というのが行われているなどとは、にわかに信じ難かったからだ。しかも、甘利大臣はTPP担当大臣、最も有力な現職閣僚の一人だ。それが、大臣在任中の2013年から14年に、大臣自身や秘書による「口利き」に関して、多額の金品のやり取りが行われたというのだ。

「あっせん利得処罰法」は、国会議員等の政治家が、行政機関等に「口利き」をして金品を受け取る行為を処罰する法律だ。政治家が「口利き」をし、その見返りとして「報酬」を受け取るという行為は、政治家と行政との腐敗の象徴としてかねてから批判されてきたが、2000年に中尾元建設大臣が、公共工事発注の口利きの見返りに建設会社から賄賂を受領して受託収賄事件で逮捕されたのを契機に、改めて国民から批判が高まったことを受け、2002年に法律が制定された。その後も、「政治とカネ」をめぐる問題が表面化する度に、国民の政治不信が高まり、政治家のモラルが問われ、政治資金の透明化のため政治資金規正法の強化・改正も行われてきた。このような流れの中、2003年に施行された「あっせん利得処罰法」が実際に適用されて摘発された事例としては、市町村議会議員が公共工事の発注に関して「口利き」をして利益供与を受けた事件が数件ある程度で、国会議員や秘書が関わる事件が摘発された例はない。

国会議員レベルの政治家に関して言えば、政治資金の透明化、政治活動の浄化が進み、「口利き」による金品の受領などというのは「過去の遺物」になりつつあると、少なくとも私は認識していたし、多くの国民の認識もそれに近かったはずだ。

ところが、週刊文春の記事によると、まさに国論を二分したTPP交渉の最前線に立って活躍する政治家の甘利大臣の秘書が、古典的とも言える「口利き」を平然と行って、業者から金をせしめていた。しかも、大臣自身も関わったり、現金を受領したりしていたというのだ。

私は、コメントを求めてきた記者に、そのような疑惑を裏付ける証拠があるのかと聞いた。記者によれば、甘利大臣側と業者とのやり取りや「口利き」の経過に関して、録音等の確かな証拠もあるとのことだ。

この問題は、久々に「政治とカネ」に関する重大な疑惑として、国会等で追及されることは必至だろうが、何と言っても焦点となるのは、現職大臣やその秘書について、検察当局による犯罪捜査がどのように行われ、どのような刑事処罰に発展するのか、特に注目されるのは、本件について、過去に例がない「あっせん利得処罰法」の国会議員やその秘書に対する適用が行われるか否かであろう。

週刊文春の記事を前提に、甘利大臣や秘書に関するあっせん利得処罰法違反、政治資金規正法違反の成否に関してポイントとなる点を述べておくこととしよう。

あっせん利得処罰法1条1項は、「衆議院議員、参議院議員又は地方公共団体の議会の議員若しくは長が、国若しくは地方公共団体が締結する売買、貸借、請負その他の契約又は特定の者に対する行政庁の処分に関し、請託を受けて、その権限に基づく影響力を行使して公務員にその職務上の行為をさせるように、又はさせないようにあっせんをすること又はしたことにつき、その報酬として財産上の利益を収受したときは、3年以下の懲役に処する」と定めており、2項で、「国又は地方公共団体が資本金の二分の一以上を出資している法人」の「役員又は職員」に対しての行為も同様としている。また、同法2条は、「衆議院議員又は参議院議員の秘書」が同様の行為をおこなったときは2年以下の懲役に処するとしている。

URは国交省が100%出資している独立行政法人であり同法2項の「法人」に該当すること、甘利大臣は衆議院議員であり、その秘書が、2項の「衆議院議員の秘書」に該当することは明らかだ。

問題は、①秘書のURの職員に対する行為が、法人の「契約」に関するものと言えるか、②「請託」があったと言えるか、③「権限に基づく影響力を行使」したと言えるか、である。

①については、秘書が関わった問題は、URの道路用地買収をめぐる業者との間の補償交渉であり、公共工事などとは違い、契約の内容が具体化しているものではない。しかし、補償交渉の結果、URと業者との間で合意が成立すれば、それは契約であり、その合意が業者にとって有利なものとなるよう、URの役職員に対して働きかけが行われたのであれば、「契約」に関するものと言うことができるであろう。

②の「請託」とは「一定の行為を行うよう又は行わないよう依頼すること」である。請託事項は、その案件の具体的事情に照らして、ある程度の特定性・具体性を要するものでなければならない。「請託を受け」とは、単に依頼されたという受身の立場では足らず、その職務に関する事項につき依頼を受け、これを承諾したことが必要である。記事によれば、甘利大臣の秘書は、実際にURの職員と面談したりしているのであるから、URの役職員に補償に関する「職務上の行為」を行わせるよう働きかけるという「具体的行為」を、業者が依頼したことは明らかであろう。

③についても、ここでの「権限に基づく影響力の行使」というのは、「大臣としての権限」ではなく、「国会議員の権限」に基づくものでなければならないが、政権与党の有力閣僚である甘利大臣は、国会議員としても、予算や法案の審議や評決に関して大きな影響力を持っていることは明らかであり、その秘書も、それを十分に認識した上で活動しているはずなので、UR側への働きかけが「権限に基づく影響力の行使」であることは否定できないであろう。

甘利大臣についても、「権限に基づく影響力」を行使してUR側に一定の職務行為を行うことの「請託」を受け、現金をその報酬として受領したのであれば、あっせん利得が成立することになる。

記事では、甘利大臣は、業者とURとのトラブルに関して、資料に基づいて説明を受け、同席した秘書に、「これ(資料)を、東京の河野君(現・大臣秘書官の河野一郎氏)に預けなさい」と指示したとされているが、大臣自身がその後、実際に業者からの依頼に基づく行為、例えば、自ら行政庁やURに働きかけたり、秘書へ指示するなどの行為を行ったのか否かは明らかではない。

また、「請託」というのは、依頼する行為が、何らかの具体性を持ったものであることが必要であり、漠然としたものでは「請託」とは言えないというのが一般的な理解であろうが、記事を前提にしても、業者側が大臣に具体的にどのような行為を依頼したのかは明らかではない。

しかし、検察は、「請託」の具体性についてはかなり緩やかに解している。

現在名古屋高裁に控訴中の美濃加茂市長事件では、一審で賄賂の授受が否定され無罪判決が言い渡されているが、この事件で、検察は、藤井美濃加茂市長が市議時代に業者から浄水プラントの導入に関して依頼を受けたとして、受託収賄、事前収賄と併せて、「あっせん利得処罰法」違反の事実も起訴している。

この事件での検察の主張は、浄水プラントの導入に関して、具体的に市議会議員としてどのような職務を依頼したのかが特定されていなくても「請託」に当たるというものである。

もちろん、同事件で市長の主任弁護人を務める私は、そのような「請託」の要件の拡張解釈は不当だと考えており、同事件の公判でも「請託」を認める余地がないことは強く主張しているが、一審では弁護側の主張どおり「賄賂の授受」そのものが否定されているので、「請託」の有無は裁判所の判断の対象にはなっていない。しかし、検察は、「請託」について、そのような緩やかな解釈で起訴し、無罪判決に対して控訴まで行って有罪判決を求めているのである。これからすると、今回の甘利大臣の事件について、「請託」が認められないことを理由に消極判断をすることはあり得ないであろう。

また、大臣自身についてのあっせん利得罪は成立せず、秘書についてのみ同罪が成立する場合であっても、秘書と大臣との共謀による犯罪の成立が問題になり得る。過去に、「政治とカネ」の問題について、政治家が秘書に責任を押し付けているとの批判が繰り返され、秘書について、政治的責任のみならず、秘書との共謀による刑事責任の追及が遡上に上った例は枚挙にいとまがない(最近の例では、小沢一郎氏の秘書が政治資金規正法違反に問われた例で、小沢氏自身も共謀による刑事責任が問題とされた。)が、実際には共謀の立証は困難であり、刑事責任が問われた例はほとんどない。本件でも、秘書が業者から受け取った金について、甘利大臣が認識していたことの証拠が得られるかどうかが鍵となるだろう。

今日の参議院決算委で、この問題について質問された甘利大臣は、「会社の社長一行が大臣室を表敬訪問されたことは事実だ。一行が来られて正確に何をされたのか、記憶があいまいなところがある。きちんと整理をして説明したい」と答弁した。

まさに、唖然とするような答弁である。50万円もの現金を受け取ったか否か記憶が曖昧だ、ということは、その程度の現金は、いちいち覚えていないぐらい受け取っているということであろうか。

現職有力閣僚をめぐる「絵に描いたようなあっせん利得」の疑惑は、一層深まっている。

甘利問題、検察が捜査着手を躊躇する理由はない の紹介

採録
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甘利問題、検察が捜査着手を躊躇する理由はない 
投稿日: 2016年1月30日 投稿者: nobuogohara
週刊文春で、都市再生機構(UR)への「口利き」「金銭授受」の疑惑を報じられていた甘利明衆議院議員が、1月28日に行った記者会見で、大臣室での50万円を含め合計100万円の自らの現金受領と、秘書が500万円を受領したことを認めた上、大臣を辞任した。「口利き」の依頼者側が、面談や金銭授受の場面を録音していると報じられたことから、その録音記録に反しない範囲で最大限自己に有利な説明をしようとしたが、どうしても現金授受は否定できなかったということであろう。

大臣室で、業者から、URとの補償交渉についての相談や依頼を受けて対応し、その場で現金を受領したというのであるから大臣辞任は当然である。甘利氏が自らと秘書の金銭受領を認めたこと、その直後に、UR側が、甘利事務所との12回にわたる接触を認めたことで、この件があっせん利得処罰法違反(「あっせん利得罪」)等の犯罪に該当するか否かに焦点が移った。

高井康行弁護士による「あっせん利得罪不成立」論の誤り

あっせん利得処罰法違反の成否について、私は、当初の文春記事のコメントでも、当ブログ【甘利大臣、「絵に描いたようなあっせん利得」をどう説明するのか】でも、成立の可能性が十分にある事件であることを指摘してきたが、新聞、テレビ等では、「あっせん利得罪は成立しない」「違反に問うことは困難」との検察OB弁護士の法律専門家見解が、多数掲載されている。

その中でも、とりわけ多数のメディアで、「甘利経済財政・再生担当大臣には、国交省所管のURに対しては直接的な影響力はないので、違反は成立しない」と半ば断定的に述べているのが高井康行弁護士だ。

しかし、あっせん利得処罰法で処罰の対象としているのは、「衆議院議員、参議院議員又は地方公共団体の議会の議員若しくは長」及びその秘書であり、国務大臣は含まれていない。つまり、自治体の首長が主体とされている一方で、総理大臣や国務大臣は除外されているのだ。

同法違反は「権限に基づく影響力の行使」を要件としているが、甘利氏や秘書の場合であれば、「衆議院議員としての権限に基づく影響力」が問題になるのであり、国務大臣としての権限や所管は問題にならない。高井弁護士の見解は、法律の条文自体を読み違えている。職務権限との関連が問題となる贈収賄罪と混同しているのではないか。

「権限に基づく影響力の行使」とは

では、国会議員の場合、「権限に基づく影響力」と、それを「行使して」というのはどういう意味か。

「国会議員の権限」とは、議院における議案発議権、評決権、委員会における質疑権等である。議員立法で成立したこの法律の立案者が国会審議で行った答弁では、国会議員の「権限に基づく影響力」とは、「権限に直接又は間接に由来する影響力、すなわち職務権限から生ずる影響力なみならず、法令に基づく職務権限の遂行に当たって当然に随伴する事実上の職務行為から生ずる影響力をも含む」とされている。立案者の一人である公明党の漆原良夫議員の逐条解説でも、同様の解釈が示され、「他の国会議員への働きかけも、国会議員としての職務権限に密接に関連するものであり、そのような行為を行い得ることによる影響力も、『その権限に基づく影響力』に含まれる」と解説されている。

そして、同逐条解説では、「影響力を行使して」とは、「権限に基づく影響力を積極的に利用すること」であり、「被あっせん公務員の判断に影響を与えるような形で、被あっせん公務員に影響を有する権限の行使・不行使を明示的又は黙示的に示すこと」だとされている。

国会議員は、議員個人の権限として、「質問」「表決」を行うことができるが、それだけでは、「影響力」は限られる。それ以上に重要なのは、議院において法律・予算等を多数決で成立させることに関して、他の議員への働きかけを行い、多数の意思を形成することである。法律や予算は、通常は、議会において多数を占める与党の賛成で成立するのであり、その点に関しては、議員が、与党議員であり、与党内で影響力を持つ有力議員であることは、「国会議員としての権限に基づく影響力」の大きさの要素だと言える。

そして、有力閣僚であることは、与党の有力議員として与党内における意見形成においても、他の国会議員よりも大きな影響力があり、それだけ「権限に基づく影響力」も大きいと言える。与党の有力議員やその秘書が、与党として法律・予算の議決や主要人事への同意等に影響を与え得る立場にあることを、話題に持ち出したり、ほのめかしたりして、あっせんを受ける公務員に職務を行わせようとする場合にも、「権限に基づく影響力の行使」があったと認められる余地がある。

高井弁護士は、「議員としてUR側に『何とかしなければ国会で質問する』などと言った場合は抵触する可能性があるが、閣僚の甘利氏は国会で質問する立場にない」などとも述べているが(日経)、「国会での質問をちらつかせて要求する」というような行為で報酬を得るのは、国会議員の職務に関連する「収賄」の典型事例であり、そのような場合しか適用できないとすれば、あっせん利得処罰法を制定した意味は全くない。

あっせん利得処罰法は、国会議員の職務権限と直接関係がないために収賄罪による処罰の対象とならなかった「政治活動と密接な関係があるあっせん行為(口利き)」による利得の獲得を一定の範囲で処罰の対象にするために制定されたものだ。高井弁護士は、このような法律の制定の趣旨や存在意義を理解しないで発言しているとしか思えない。

甘利氏とURの関係と「議員の権限に基づく影響力」

甘利氏や秘書とURの関係について言えば、「議員の権限に基づく影響力」に関して、次のような背景がある。

まず、URは、国が100%出資している独立行政法人である。現職出向・OBを含め国土交通省出身者が多く、理事長も歴代国土交通省OBだったが、民主党政権時代に、民間人が理事長に就任し、現在に至っている。

URは、賃貸事業など民間企業と競合する事業を多く行っているが、巨額の財政投融資によって経営が支えられ、巨額の有利子負債を抱えていることから、民営化や存続の可否を含めた組織の在り方についての議論が重ねられてきた。

2007年の「独立行政法人整理合理化計画」で当時の渡辺喜美行革担当大臣がURを民営化する方針を打ち出して以降、その後の民主党政権下においても、民営化がしばしば遡上に上ってきたが、自民党への政権交代後は、その議論は下火となり、現在も独立行政法人として存続している。

このような経過から、URという組織は、その時々の政権の意向に大きく左右される面があり、政治に対しては極めて脆弱な組織だと言える。

とりわけ、民営化の方針を打ち出した渡辺喜美氏の後任として、2008年に麻生内閣での行革担当大臣に就任した甘利氏は、2012年に自民党が政権に復帰して以降、有力閣僚として自民党内での影響力を維持してきたのであるから、URをめぐる問題については与党内で相当大きな発言力を持ち、URに対しても、組織の在り方や理事長の同意人事等を通して非常に大きな影響力を持っていたと考えられる。

このような、URに関連のある閣僚ポストも経験した与党の有力議員としての甘利氏とURとの関係が、まず、「議員としての権限に基づく影響力」の背景になっていると言えよう。

甘利氏本人と秘書がS社側から金銭を受領した事実を認めているのであるから、甘利氏の秘書とURとの間で繰り返された多数回の会合の中で、秘書が、S社にとって有利な補償額を引き出そうとして、上記のような甘利氏のURに対する影響力に関連するような発言をしたり、暗黙のうちにそれを誇示したりした事実があれば、秘書が「議員の権限に基づく影響力を行使した」とされ、あっせん利得罪が成立する可能性がある。また、権限に基づく影響力の当事者である甘利氏自身が、URに対して直接、或いは、国交省を通じて、S社からの依頼に関して何らかの連絡をとったとすれば、甘利氏本人にも、あっせん利得罪が成立する可能性がある。

このように考えると、今回の甘利氏と秘書の問題は、あっせん利得罪として立件・起訴に持ち込める可能性が十分にあり、検察当局が、積極的に捜査を進めていくべき事件だと言えよう。

あっせん収賄罪成立の可能性も

週刊文春のコメントやこれまでのブログでは触れていないが、今回の甘利氏や秘書の問題に関しては、あっせん利得罪や政治資金規正法違反のほかに、もう一つ成立の可能性がある犯罪がある。

それは、刑法197条の4の「あっせん収賄罪」である。

同罪は、「公務員(①)が請託を受け、他の公務員(①)に職務上不正な行為(②)をさせるように、又は相当の行為をさせないようにあっせんをする」ことの対価として賄賂を受け取った場合に成立する。

国会議員で国務大臣であった甘利氏も秘書も特別職国家公務員に該当し、UR職員には、「みなし公務員規定」があるので(都市再生機構法10条)、あっせんの対象となる公務員に該当する(①)。

あっせん収賄罪(懲役5年以下)が、あっせん利得罪(懲役3年以下)と異なるのは、「不正な行為」(②)が要件とされていることである。

S社側が、甘利大臣側に依頼した、補償交渉の案件は二つあり、一つの案件に関しては、当初、1600万円の補償しか行われていなかったが、甘利事務所が交渉に加わった後に、2億2000万円が支払われた(A案件)。もう一つの案件に関しては、隣地に関してURが産業廃棄物の処理費用30億円を負担したことから、S社はURに同様の補償を要求し(B案件)、その後、甘利事務所が交渉に介入したが、結局、補償は行われないまま、本件が週刊誌報道されるに至った。

一般的に言えば、いくら「権限に基づく影響力の行使」を受けたからと言っても、公務員やUR職員が「不正行為」まで行うことは考えにくい。

A案件については、実際に、S社に2億2000万円が支払われているが、それは、補償金の支払について、甘利事務所側からの働きかけを受けたUR側が、適法に行い得る範囲で、最大限に有利な金額としてS社側に支払ったのが2億2000万円ということだったのだろう。

それに対して、B案件の方は、産廃処理費用をURに負担させることは、適法に行い得る範囲を超えていたから、結局、支払われないままで終わったのではないか。そうであれば、そのS社側の要求は、「不正な行為」を求めるもので、そのことを認識して、甘利氏又は秘書が、UR側に要請したとすれば、「不正行為のあっせん」に該当する可能性がある。

検察にとって捜査着手を躊躇する理由はない

前のブログ【甘利大臣をめぐる事件で真価を問われる検察】でも述べたように、今回の週刊誌報道で表面化した甘利氏をめぐる問題は、度重なる不祥事で信頼を失墜した検察にとって、その威信を回復する「千載一遇のチャンス」だ。

甘利氏が、S社からの現金100万円の受領と秘書の500万円の受領を認めて大臣を辞任し、URが、甘利事務所秘書との12回にわたる面談の事実を認めた。

前に述べた、甘利氏の有力与党国会議員としての、URとの浅からぬ関係と、その影響力も含めて考えると、あっせん利得罪又はあっせん収賄罪の事件として、これだけ、好材料が揃った事件はない。しかも、秘書2名については、比較的立件が容易な政治資金規正法違反(300万円分の収支報告書虚偽記入)と業務上横領という、身柄確保のための「入り口事件」もある。

検察のストーリーに合わせた調書を不当な取調べをしてでもとるという旧来の特捜の捜査手法を使わずとも、捜索差押による関連証拠の入手と適正な取調べを淡々と行うことで、捜査の展望は開けるはずである。

甘利氏の大臣辞任によって、憲法75条の「国務大臣は、その在任中、内閣総理大臣の同意がなければ、訴追されない。」という規定による制約も予算審議への影響を考慮する必要もなくなった今、検察にとって、捜査着手を躊躇する理由はない。

新聞記事では、「UR側は『口利き』は否定している」とされている

"甘利問題、UR「『口利き』を否定」の“怪”
投稿日: 2016年2月2日 投稿者: nobuogohara
都市再生機構(UR)が、甘利事務所との面談内容を公表した。

12回にわたって、甘利氏の秘書とUR側が面談を繰り返し、そのうち6回は総務部長が同席していた。その中で、甘利氏の秘書から、「少し色を付けてでも地区外に出て行ってもらうほうがよいのではないか」との発言があったことも明らかになった。ところが、誠に不可解なことに、新聞記事では、「UR側は『口利き』は否定している」とされている。

総務部長が、報道陣に、「補償額上乗せを求めるような発言はなかった。秘書との面会が影響を与えたことはなかった」と述べたことを、「『口利き』はなかった」と表現しているようだが(【UR、甘利氏元秘書との面談内容を公表 口利きは否定(朝日)】)、ここでの「口利き」という日本語は、一体どういう意味なのだろう。

12回にもわたって、S社への補償に関してUR側と交渉し、その中で「少し色をつけて」と言われたことを認めているのに「『口利き』を否定」というのは、日本語の使い方として全く理解できない。

辞書によると、「口利き」とは「談判・相談などをまとめようと、あいだをとりもつこと。」である。新聞記事を書く前に、まず中学校レベルの日本語の勉強をした方が良いのではないか。

この「口利き」というのは、「あっせん利得処罰法違反に当たるような『口利き』」という意味かもしれない。しかし、法律には「口利き」などという言葉は使われていない。政治家や秘書の「口利き」のうち、「権限に基づく影響力を行使してあっせんし、報酬を受け取った」ものが処罰の対象にされているということに過ぎない。そういう意味であれば、「法律に触れるようなあっせんは否定」と書くべきであろう。しかも、URの公表内容を前提にすれば、甘利事務所側の「口利き」があっせん利得処罰法違反に当たる可能性は一層高まったと言えるのである。(甘利事務所の「口利き」について犯罪が成立する可能性が十分にあることについては⇒ブログ【甘利問題、検察は捜査を躊躇する理由はない。】参照)

もしくは、UR側が「『口利き』ではない」と言っているから、その通りに書いたということなのだろうか。そうであれば、例えば、「相談」という言葉に関して、「いろいろ事情を説明して、対応について助言してもらいました。でも『相談』ではありません。」と言ったら、「『相談』は否定」と書くのだろうか。

あまりに不可解な新聞の見出しが並んでいるのを見て、朝から、眩暈がしそうだ。"

甘利前大臣の問題は、そのような「政治とカネ」の問題とは性格を異にする、「犯罪」そのものが疑われる問題だ

"「政治とカネ」の問題に関しては、「政策実現と政治献金との対価性」、「政治資金の透明性」「赤字企業、外国企業、補助金受交付企業など政治献金を行う主体の制限の問題(「企業・団体献金の禁止」もその延長上にある)」など様々な問題が交錯する。甘利前大臣の問題は、そのような「政治とカネ」の問題とは性格を異にする、「犯罪」そのものが疑われる問題だ。"

覚せい剤事犯の場合

"覚せい剤事犯の場合、初犯に対しては、ほとんど執行猶予の判決が出される。そして、多くの者が、執行猶予中に再び覚せい剤に手を染めて有罪判決を受け、執行猶予が取り消され、新たな事件の懲役に、前の事件の懲役が加算され、かなり長期の受刑となる。いきなりの長期の服役で更生の意欲が失われてしまうことも珍しくない。

「初犯⇒執行猶予」「再犯⇒実刑・初犯の執行猶予取消」というお決まりのパターンが、かえって、覚せい剤事犯者の社会復帰を妨げているとも言える。

初犯であっても、1年程度の実刑とし、一定期間矯正処遇を受けさせることが、逆に、社会復帰の可能性を高めることになるのではないか。

執行猶予を付するか実刑にするかは裁判官の裁量だ。覚せい剤事犯は、それ自体は一般的には被害者がいない犯罪であり、裁判官として初犯に実刑を言い渡すことに抵抗があるのは理解できる。しかし、本来、執行猶予は、社会内での処遇が本人の更生に資すると確信がもてる場合に言い渡されるべきだ。社会に戻ることで逆に再犯の可能性が高まると考えられるような場合にも、形式的・機械的に執行猶予の恩典を与えるのが果たして本人のためになるのだろうか。"


「政治とカネ」の問題、あっせん利得処罰法違反と予算執行の関係

独法URのコンプライアンスの視点から見た甘利問題 
投稿日: 2016年2月25日 投稿者: nobuogohara
衆議院予算委員長名の文書で、昨日2月24日の中央公聴会において公述人として意見を述べるよう依頼が来たので、出席して意見を述べた。

10年前の2006年に、同じ中央公聴会で「コンプライアンスは『法令遵守』ではなく『社会の要請に応えること』である」との私のコンプライアンス論を、国の予算に生かしていく必要性について意見を述べたことがある。

昨日は、改めて、コンプライアンスの観点から、「政治とカネ」の問題、あっせん利得処罰法違反と予算執行の関係、今回の甘利問題を通して、独立行政法人URの組織や活動の在り方、政治との関係性について所見を述べた。

その要旨は以下のとおりだ。

 これまで、多くの政治家に関して「政治とカネ」という括りで指摘がされてきたが、この曖昧な言葉で、性格の異なる問題が一把ひとからげに混同されて議論されてきたことには問題がある。

「政治とカネ」の問題は、「賄賂」系の問題、「政治資金の公開」系の問題、「寄附制限」系の問題の3つに大別することができる。

「賄賂」系の問題について、国会議員の場合、その直接の職務権限は、議会での質問・表決等であり、その対価として賄賂と認められるものの範囲は限られるため、国会議員に収賄罪が適用される例は極めて少ない。むしろ、職務権限を背景として行われる、行政官庁等へのいわゆる「口利き」等で対価を受け取る行為が厳しい社会的批判を受けるケースが多いことから、「あっせん利得処罰法」が制定され、国会議員等の政治的公務員については、処罰の範囲が拡大されている。

「政治資金の公開」系の問題というのは、政治資金の寄附やその使途を政治資金収支報告書によって公開し、政治家や政党の活動が政治資金によって不当な影響を受けていないかを、国民の不断の監視に委ね、選挙における有権者の選択に反映させようとの趣旨で行われている政治資金公開制度の下で、収支報告書に虚偽の事実を記載するなどの行為が違反に問われるものである。

「寄附制限」系の問題というのは、政治資金の寄附に関して、政治資金規正法によって制限されている連続赤字会社、補助金受給企業、外国企業からの寄附の禁止や、寄附の量的制限等に違反する問題である。

これまで、うんざりするほど取り上げられ、中には国会審議にも大きな影響を与えてきた「政治とカネ」の問題の多くは、第二、第三の、いわば政治資金処理の手続き上の問題である。これらは、意図的に行われたものでない限り、基本的には、政治資金を正しく公開することと、再発防止の徹底が重要となる。

それに対して、第一の「賄賂系の問題」というのは、公務の廉潔性を損なう「犯罪」そのものであり、政治的公務員の職務の信頼性にも関わる問題であるだけに、事案の真相を解明した上で厳正な処罰が行われる必要があるが、最近10年以上、国会議員について表面化した事例はない。

国会議員等の政治的公務員の「賄賂系の問題」に対して適用される極めて重要な罰則規定である「あっせん利得処罰法」は、2000年に公明党を中心とする議員立法によって成立し、2001年に施行されたものだ。

もっとも、国会議員等の政治家が、支持者・支援者等の国民から依頼され、裁量の範囲内の行政行為について行政庁等に働きかけて依頼に応えようとすることは、国民の声・要望を行政行為に反映させるための政治活動として必要なものでもあることから、立法にあたっては、そのような政治活動全般を委縮させることがないよう、看過できない重大な事案だけが処罰の対象となるよう配慮がなされている。

要件としては、「特定の者に対する行政庁の処分」に関する「あっせん」が対象とされているほか、予算執行の段階での、国、地方自治体及び国が2分の1以上を出資する団体の「売買、貸借、請負その他の契約」に関する「あっせん」が対象とされている。

国会における予算案の審議・議決、決算の審査・承認という国会議員の直接の権限を背景に、支持者、支援者等の要望を行政庁側に伝え、それを予算の作成・執行に反映することも政治家の政治活動の重要な役割だが、その中でも、予算の策定段階での行政庁への働きかけは、特定の個人や企業に有利に働く面があっても、基本的には政策実現を目的として行われるもので、政治活動の自由が保障される必要性が高いのに対して、予算執行の段階で行われる事業者等との契約というのは、法令上の手続に基づいて適正かつ公平に行われるべきものであり、政治家が契約の相手方や契約内容に介入することは正当な政治活動とは言い難い面がある。そこで、「契約」に関する行政庁等への「あっせん」によって利得を得る行為は、行政処分への介入と並んで、「口利き」による弊害が大きいと考えられ、あっせん利得処罰法の対象とされている。

「権限に基づく影響力の行使」も要件とされているが、国会議員の場合、「権限に基づく影響力」の典型は、議院において法律・予算等を多数決で成立させることに関して他の議員への働きかけを行い、多数の意思を形成することである。法律や予算は、通常は、議会において多数を占める与党の賛成で成立するので、与党議員であることや、党内で有力議員であることは影響力の大きさの要素であると言える。

このように、あっせん利得処罰法は、あっせんの対象を、「行政処分」と「契約」に関するものに限定した上、「権限に基づく影響力を行使」した場合に処罰の対象を限定するもので、「二重の絞り」をかけることで、政治活動を不当に委縮させないように配慮しつつ、行政庁等に不当な影響力を及ぼし、依頼者の個人的利益を図ろうとする悪質な行為を処罰する適切な立法と評価できる。

この法律の施行後、国会議員やその秘書に対して同法の罰則が適用された例はないが、法律が施行されたことが、悪質な「口利き」によって利得を得る行為に対して一定の抑止効果をもたらしたと見ることもできる。

ところが、今般、現職有力閣僚であった甘利氏とその秘書をめぐって、独立行政法人のURとの補償交渉をめぐるあっせん利得処罰法違反の疑いが表面化し、しかも、そのような「口利き」を依頼したと告白している者から、「現職大臣が大臣室で現金を受領した」という信じ難い事実も明らかになった。

URとの補償交渉は「補償契約」によって決着するので、「契約」に関する「あっせん」であることは明らかである。甘利氏の秘書は、補償の金額にまで介入して、その報酬として多額の金銭や接待を受けた事実があったようであり、「国会議員の権限に基づく影響力」についても、現職閣僚で有力な与党議員であるうえ、2008年に麻生内閣で行革担当大臣に就任した甘利氏は、2012年に自民党が政権に復帰して以降、組織の在り方や理事長の同意人事など、URをめぐる問題が与党内で議論される場合には相当大きな発言力を持っていたものと考えられることから、「議員としての影響力の行使」が十分可能な立場だったといえる。

甘利氏をめぐる問題は、二重の絞りがかけられ、ストライクゾーンが狭く設定されたあっせん利得処罰法の処罰の対象の、まさにど真ん中のストライクに近い事案である。

検察当局としては、早急に強制捜査に着手して証拠を確保すべきと考えられるが、「東京地検がUR職員から聴取」などと一部で報じられた以外、捜査が行われている形跡は全くない。また、甘利氏は、大臣辞任後国会には全く登院しておらず、辞任を表明した記者会見で「元特捜部の弁護士に調査を依頼している」と述べているが、果たしてそのような「元特捜弁護士」というのが存在しているのか否かも疑問だ。

この問題が、大臣辞任ということだけで、何ら真相解明が行われず、うやむやにされるとするとすれば、国会議員の政治活動に関する倫理感の弛緩を招くことになりかねず、あっせん利得処罰法が制定された意味がなくなってしまいかねない。

最後に、「コンプライアンスは法令遵守ではなく組織が社会の要請に応えること」という観点から、公的な住宅供給を担う独立行政法人URの組織の問題として今回の甘利氏をめぐる問題を考えてみたい。

URは、財政投融資による住宅等の資産12兆円を保有する巨大な公益法人だ。事業の内容が、民間の住宅建築・住宅供給と競合することから、事業の効率化、合理化が求められ、民営化の議論が遡上にのぼってきたが、一方で、これから超高齢化社会を迎え、また、若年世代の貧困も大きな社会問題となっている我が国社会において、住宅供給を民間のみに任せておいてよいのか、衣食住の基本と言える「住」のセフティネットを確保していくため、公的住宅供給が、どのような役割を果たしていくべきなのかは、大変重要な問題だ。

そういう問題に関して、政治家が、国民・地域住民から、幅広く、公的住宅供給をめぐる声を、UR・国交省に伝えるというのは、良い意味での、健全な「口利き」と言える。

公益法人としての経営の効率性・合理性を追求する一方で、社会的な必要があれば、公費を投入してでも、住のセフティネットの役割を果たすことに関して、介護・年金等の社会福祉の問題とも関連づけて、国会の場で議論することが必要であり、それが、URにとっての「社会の要請に応える」真のコンプライアンスにつながるはずだ。

ところが、今回の甘利氏の問題では、公有地を不法占拠する建物への補償交渉という、いわば「薄汚い口利き」に介入し、それによって秘書は多額の金品を受け取り、頻繁に接待をうける、大臣は大臣室で現金50万円を受け取る、UR幹部は与党の有力議員や秘書の顔色を窺う、というようなことが明らかになっている。

こんなことで、「公的住宅供給を通して社会の要請に応える」というURの本当の役割が果たせるだろうか。まず、こういう歪んだ関係に関して、一体何が起きたのか、どういう事実があったのかということを早急に解明した上で、今後のこうした問題についての政治とUR・国交省との関係等を前向きに建設的に議論していくべきだ。

本来、検察が、刑事事件として取り上げ捜査の対象にすべき案件だが、それが全く行われないのであれば、国会審議の前提としての重要性を考えれば、国会における事実解明も必要になってくるものと思う。

私としては、国会審議でもしばしば取り上げられる「政治とカネ」の問題を整理し、あっせん利得処罰法の適用範囲について予算執行との関係で説明し、コンプライアンス論の観点から、財政投融資によるURの公的住宅資産の活動と、住のセフティネット構築のために公費投入も含めて議論するに当たって、前向きな議論ができる前提を確保するためにも、甘利氏の問題の事実解明が必要だという意見を述べたものである。公述人として意見を述べるよう求められた私にとって、コンプライアンス・刑事実務という専門の知見から行った意見陳述だった。

ところが、それに対する、自民党とおおさか維新の対応は、信じ難いものであった。

私が甘利氏の問題に言及し「まさにど真ん中のストライクに近い事案」と言ったあたりから、右半分強の自民党席はざわつき始め、何人もの議員が立ち上がって他の議員の席に行って話をするなど、ほとんどまともに聞いている議員はいないという、さながら「学級崩壊」の状態だった。

特に、最前列に座っていた平沢勝栄議員は、最後列にいた質問者のトップバッターの山下貴司議員とのところに歩み寄り、なにやら耳打ちを始めた(この「耳打ち」は私の陳述終了後も続いていた)。

そして、私を含め4人の公述人の意見陳述が終わり、最初に山下議員が質問に立ち、普通の表情で他の公述人に対する質問をした後、にわかに物凄い形相になって「質問」、ではなく「演説」し始めた。

一見まともなことを言っているように思えるが、内容は支離滅裂で、私の意見陳述に対する反論には全くなっていない。

まず、山下議員は、「国会が法制度や予算に対する建設的議論を脇に置いて、個別の事件追及に汲々とするのは、捜査機関や司法権に対する国会の介入になりかねない」、「法律家として、民事刑事に関わらず、個人の法的な責任の有無について国会の場で取り上げることについては慎重でなければならない」などと述べた上で、民主党政権時代に、陸山会をめぐる政治資金規正法違反事件について、小沢一郎氏や秘書について予算委員会での証人喚問や参考人招致を求めたが実現しなかったことを指摘した。

しかし、政治資金規正法違反で秘書が逮捕されていた小沢氏の事件とは異なり、甘利氏の問題については、現時点では告発すら行われていないし、捜査機関の捜査が現実化しているわけでもない。しかも、私は、あっせん利得処罰法の立法の趣旨、罰則の適用範囲を示し、甘利氏の問題が、当然、検察があっせん利得処罰法違反で捜査の対象とすべき事件だと述べた上、もし、検察が捜査によって事実解明を行わないのであれば、国会による事実解明を行うこともやむを得ないと言っているのである。国会が捜査機関に直接介入すべしと言っているわけでもないし、ましてや、甘利氏の法的責任を国会の場で取り上げろと言っているわけでもない。

そして、もっとも的外れなのは、山下議員があっせん利得罪について、「その権限に基づく影響力を行使して」というのが「新しい構成要件」であり、その解釈については「まだ固まっていない」と述べた上で、私の著書「検察の正義」の記述を引用したり、美濃加茂市長事件に言及した点である。

「検察の正義」で「議員の職務としての活動より政治活動が中心になっている国会議員や秘書が、この罪で摘発された事例は過去にはない。野党議員の場合には「権限に基づく影響力」というのは一層考えにくい」と、やや消極的に述べておられますが、郷原先生、このとおりで間違いないですか?今うなづいていただきました。

そして、私が主任弁護人となった一審無罪となった美濃加茂市長事件で、収賄と併せてあっせん利得罪について起訴されており、私を含む弁護側が

「当時市議会議員であった被告人は、市議会で質問権を行使したこともないし、市職員にとって議会で再質問されることは一般的なことであって特に負担になるものではないから、これを恐れて対応することは考えられず、市議会議員としての権限に基づく影響力の行使に該当するとは言えない。市が動いたのは市として必要があったからであり、被告人の権限に基づく影響力の行使によるものではない。」

と主張していることに言及し、

美濃加茂事件について、「影響力の行使」要件について、そのようなご主張をされたことは間違いありませんか。今、うなづいて頂きました。

などと言うのである。

いずれについても、私に説明すら求めず一方的に引用して、私が、その引用に「うなづいた」だけで、私が、あっせん利得罪に対して消極的な姿勢を示していることを認めたかのように扱おうとする。

しかし、著書で述べているのは、私が、意見陳述の中でも述べたように、法律や予算は、通常は、議会において多数を占める与党の賛成で成立するので、与党内で影響力を持つ有力議員であることが「権限に基づく影響力」の大きな要素であり、野党議員の場合には影響力は大きくないということだ。甘利氏は、与党の有力議員なのであるから、著書で述べていることは全く違うのであり、あっせん利得罪の「ど真ん中のストライク」であることには変わりはない。

また、美濃加茂市長事件で弁護人として主張しているのは、検察が主張する「議会での質問」の事実が「ない」ということと、被告人は、一人会派で、議会で多数を占める政党に所属しているわけでもなく、「議員の権限に基づく影響力」は極めて低い、ということであり、甘利氏のような与党の有力政治家の場合とは全く異なる。

山下議員は、このような的外れな引用をして、私が、「書いてあることとしてはその通りだ」という意味で「うなづいた」というだけで、

このように、解釈が分かれ、しかも当てはめも事案によって異なる法律の個別事件の法解釈について、国会の、特にこの予算委員会で延々と取り上げることについては疑問があるということなんです。

などと、一方的に「独演」を続けた。「公述人に対する質疑」を行う立場なのに、公述人に発言する機会をほとんど与えようともしなかった。

衆議院の予算委員会における質疑で、このような議論のやり方がまかり通るというのは驚きである。

しかも、この山下議員の質問は、単なる個人プレーとは思えない。質問の前、平沢議員は、山下議員の席に歩み寄って、入念な「打合せ」をしていた。自民党チームの「平沢監督」が、ネクストバッターズボックスにいた山下議員に気合を入れ、その上でバッターボックスに入って行ったのが、この「演説」だったのである。

そして、この山下議員の発言は、5番目に質問に立ったおおさか維新の会の足立康史議員にも多大な影響を与えた。

足立議員は、「今日は、山下委員から、冒頭、スキャンダル周りの話があって、大西委員(民主党)からも議論があったので、私がほっとくわけにもいかない」などと言って、山下議員の「演説」を受けての質問を始めた。

その内容は、公述人の私に「(公聴会に)なぜ来たのか」、「普通の人は民主党の応援団には弁護士の仕事は頼まない」、「郷原さんは専門家じゃない、政治屋なんです」などと、公述人の意見陳述とは全く無関係な、露骨な誹謗中傷そのものであり、まさに、国会の品位を貶める発言そのものであった。

足立議員の誹謗中傷質問に対しては、予算委員会理事の民主党の山井議員が委員長に、発言の撤回を求めて激しく詰め寄っていた。野党席から非難の怒声があがる一方、自民党席から、「議事進行!」「議事進行!」という叫び声が上がり、委員長は、「後日、理事会で協議する」と言っただけで、そのまま、足立議員の質問は終了した。

これが、昨日の、衆議院予算委員会中央公聴会での私の意見陳述をめぐる顛末である。

残念ながら、このような状態の予算委員会で審議され、成立しようとしているのが、我が国の国家予算なのである。